妙福寺の歴史
『祖諸綱要』で名をはせた一妙院日導上人
当時、京都鷹峯檀林の化主であった谷中 妙福寺の日禅上人が目をかけ、江戸に連れ従えました。
安政6(1859)年 谷中周辺の古地図
久遠成院日親聖人、御年十九歳、応永三十二(1425)年に総導師として九州松尾山光勝寺へ御下向の折に、松尾山の辰巳の三ヶ島と云う処に小高き石を説法の座になさり、九州地方弘通伝道の拠点として肥前国加瀬郡加瀬町に一寺を建立されました。
江戸庶民にとっての一年に一度の重要な行事の一つとして、 正月十七日の谷中妙福寺の日親上人への信仰がありました。
本阿弥十一代目光温(法名常住院光温日良、寛文7年1667年卒)が寺地を寄進して下さり、等光院(東光院)として庵室を営みました。
万治二(1659年)五月、第十四世等光院日春上人の代に、故あって佐賀県より現在の谷中にお寺の庵室を移転されました。
山門を入って左奥、八重桜の木の下にたたずむお墓
錣山喜平次をはじめ、お相撲さんのお名前が記載されています
墓石の裏には「奉読誦妙法華経百部」
山門を入って左側をご覧ください
享和3年(1803年)春に御奉納頂きました
味わいのある短歌
中世(鎌倉時代から桃山時代)に造立された供養塔です
谷中 妙福寺 日諦聖人のお名前が入った木札
松尾山 光勝寺さまの御宝前にお祀りしてありました、三宝様の宝塔の中から出てきました